記憶をたどる錨としての元号

2019年3月に昨年96歳で亡くなった祖母の納骨を行いました。

住まいから徒歩5分程度のところにある墓地というより、墓場という言葉が似合う場所です。僕たちは、ものごころついた頃から、この墓場を見てそしてお参りしながら育ちました。まるで鬼太郎と出会いそうな、森に包まれた墓場です。

古い記憶では、5歳頃に本家のおじいさんをこの火葬場まで野辺送りし、祖父たち男たち数人で何時間もかけて焼いていたのを憶えています。担当は寄合や隣組ような古い地域の単位で持ち回りで行われていました。

この火葬場も既に使われなくなり久しく、老朽化が激しく進んで廃墟のようになっていました。思い起こすと、祖父が亡くなった1999年には1時間ほど離れた近代的な設備の火葬場に行ったので、20年以上使われていないのではないでしょうか。

納骨のとき、近くにあった古く苔で少し緑がかった墓石が目に入りました。その墓石には、亡くなった女性の年として「文化十年」という文字が刻まれていたからです。 

 

享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。
町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文政期とあわせ、化政文化という。

Wikipedia

 

田んぼの中にぽつりと出島のように存在し、そこにたどり着くには人一人が歩けるくらいの字道をたどっていくその場所は、生産緑地地域に指定されていることから、私の祖父母の子ども時代から景色が変わっていないそうです。ということは、少なくとも100年はこんな状況の場にあり、火葬場などは都度建て替えられてきたのでしょう。

もちろん可能性としては、墓石だけ他の場所から運んだ事も考えられますが、少なくとも、この村落に多い苗字であることから、地域に縁はある方だと思います。

歴史的には、このあたりは宝村と呼ばれ、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎から羽柴秀吉として活躍していたころには、前田利家の妻になる松の生家があり、配下の蜂須賀小六、福島正則らの出身地も隣接の村の出身です。

それが16世紀ですから、その流れで考えれば19世紀には農業を営む家々があったのでしょう。19世紀後半からは、町の産業としては七宝焼きが有名です。僕の祖父母も尾張七宝の窯元として40年以上働いていました。ただ、尾張七宝が開発されたのは、天保3年(1833年)で文化10年は1814年ですので。七宝焼が開発されるよりも19年前になります。

 

「名古屋市に住んでいた梶常吉という人物が1833年に七宝の作り方を発見」

あま市七宝アートヴィレッジ

 

大正10年生まれの祖母は、昭和、平成と生きました。

元号と西暦と使い分けがいろいろ面倒だと感じることもあります。

しかし、「文化」という途方もなく遠く感じる時代が、生活エリアのしかも、同じ地域で目にすると当時の想像が思いが向きます。それとともに、繋がっていく世代と土地についても感じます。

そのときどきの為政者たちが願いや意味を込めた漢字で構成される元号から、意味を想像する余白もあります。

「文化」も文字を見て、おそらく変わらない地域の墓場の風景から当時の村の様子や人々の仕事や私生活、話題がどんなものだったのか、歩きながら考えました。

人の移動が激しい時代です。親世代とは違う地域に暮らすことは珍しくありません。しかし、「人生フルーツ」の津幡さんの暮らしを見てから、土地とは土であり、土とは先祖の記憶だという考えが妙にしっくり来るようになりました。

新しい元号も決まり「令和」となりました。

僕は新しい元号の期間に、成熟し老いていく人生の季節を迎えます。古から繋がっている故郷の地域とどんな縁を繋いで暮らしていくことになるのか、自分もこの墓場に最後はいるのでしょうか。

親や自分、息子たちもいない今から100〜200年後も、ここは同じ風景であることを勝手に想像してしまいます。