「ネット・バカ」という本の内容が、かなり意義深い気づきを与えてくれたので感想を。なかなか挑戦的なタイトルであるが、オリジナルのタイトルは”The Shallows”。著者は、脳の情報処理の仕方が情報技術とともに変化していくことに警鐘を鳴らす。
一つのことに集中して深く思索しづらい事は自分でも強く感じているが、それはネットを使った情報収集と処理が原因であることを脳科学や心理学実験の結果を用いて論証している。著者の実体験を、データで裏付けていく、割りと精緻なアプローチである。
「デジタルへの没入は、。情報吸収のあり方にさえ影響を及ぼしている。彼らはページを、必ずしも左から右へ、上から下へとは読まない。あちこちにすばやく目を配り、興味と関連のある情報をスキャンするのだ」。
「デューク大学教授のキャサリン・ヘイルズは、『学生たちにまる一冊本を読ませることがもうできなくなっている』と打ち明けた。ヘイルズは英文学の教授である。つまり彼女の言っている学生たちというのは、文学を専攻する学生たちなのだ。」[P21]
著者自身が本を書くにあたり、田舎に引越し、SNSを休眠させメールの確認も最低限にした体験を語っており大変興味深い。はじめは、SNSやメールを確認したくて仕方がなかったが、その状態をしばらくやり過ごしたことで、それ以前の集中できる状態になり、執筆も捗ったとある。
僕自身、インドの農村で合宿形式の100時間の瞑想を試みたことがあるが(ヴィパッサナ・メディテーション)、そのときは著者が言うとおり深い静かな思索ができていた。このとき、衣服以外の全ての所持品は預けなければならないため、向き合う対象は自己の内面だけであった。
100時間もIT機器はおろか本などの情報から離れると、合宿が終わってからパソコンを開いた時にあまりの情報の煩雑さにクラクラした。イヤフォンをして音楽を聞いたときには、あまりの音の多さに身震いしたほど。しかし、そんな状態も実感として3日とたたず元に戻った。
情報が溢れる社会では、必要なスキミングし自分に必要な情報かどうかを瞬時に判断するスキルは大切だが、深い思索がなくては人も脊髄反射的な処理装置になってしまう危険があるなと危機感を抱く。
たとえば、こんなブログへの雑文執筆にしても、ここ数年はかなり意識しなければできないことである。何かを考えて述べようとすれば、それなりにその対象に深く向き合う必要がある。それは長く読むことであり、その過程で考えて、そして書いてみる。なかなか面倒な作業かもしれない。
それよりFacebookやTwitterを流し読みして、適当にLikeでも押していた方が快適だ。
生活のタッチポイントを見直し生活習慣を整えることが、仕事を含む生活そのものに繋がっていくことを改めて強く考え直す必要性を感じた。無意識に目に入る物、反応していることを整えることが自分にも家族にも大切。
僕は、もう少し考えることを深くしたいので、これを気に具体的なアクションをとってみることにした。
まずはスマホから1日1回程度見ておけばいいアプリは消すことにした。具体的には、Facebookをまずは消してみる。Facebookが無用だとは思っていない。それはそれで有効だが、集中して本を読んでいるときや人と話しているときに、ちらっとアイコンに通知が来たことを見て意識が途切れるほど大事なものでは全くない。
同時に、生活の導線における物も整理していかないとなと思ったりする。小さなところでは自室や自宅、広く言えば暮らしの風景全体が対象になる。
使わないときは、パソコンはしまうこともしてみようと思う。何でもかんでもパソコンをまず使うことから何かをはじめるという習慣は、あまりよくないのではないかと感じてる。スマホも画面が見えないように置くときはひっくり返して置こう。
暮らしの風景全体となると、引越したりしないといけなくなるので少し時間がかかるが、無意識の中に触れ合うものには意識を向けておくべきではないか。
かなり大きな意識を自分に与えてくれた良書であった。