中原街道はほぼ毎日行き来する近所の道であるが、そこに子別れ地蔵がある(品川区西五反田6丁目)。
江戸時代から、この先にある桐ヶ谷の火葬場に我が子を亡くした親がここまで運び、ここで別れた。
「このお地蔵様は享保12年(1727)に建てられた、『子別れ地蔵』と呼ばれる地蔵菩薩です。ここはかつて桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が、その亡骸(なきがら)を見送った場所であったと云われております」(立て札)
聞くこところでは、親より先だった子供を火葬現場まで送っては行けないという風習があったという。(逆縁という)
失礼ながらあまり縁起がよいものでない気がして、写真に撮ることもなかった。
しかし、子が生まれて意識が変わった。
安産だと思っていても、実際は平穏ではなかった。最近、漫画「コウノトリ」を読んで、周産期には絶対の安心はないし、常に何かが起きるということを知った。
そもそも、子供が親より先立つということは珍しいことだと思っていたことが誤りだった。公開データを見てみると、明治34年からの乳児死亡率が下のような事実を示している。
明治時代も後半、大正に入ってからも15%前後は5歳までに亡くなっていた。そういえば、大正生まれの亡き祖父母も成人するまでに兄弟の半分は亡くなっていた。
この子別れ地蔵が建立された江戸時代は更に多かったに違いない。
子別れ地蔵があるあたりは、古地図を見てもすでに昭和20年台には宅地が増えているが、もっと昔は農地でこの地蔵も本来の台座に載せられ目立つ存在だったであろう。隣には鉄筋の病院とマンションがあるが、何かお堂のようなもので囲われていたことも考えられる。
Googleで検索してみると、戦火の影響も受けたとの記載もあり、手が取れている。この辺りは、僕は一次情報にあたっていないのでどのような経緯で破損したのかはわからないが、空襲の影響があったとしてもおかしくはない。
現代のような霊柩車ではなく、皆で棺を担いで野辺送りをしていた風景が想像される。
僕は昭和後半生まれで実家・愛知県の郡部で育ったため小学生のときには近所では野辺送りがまだあって、親戚のおじいさんを送ったのを憶えている。
ちなみに子別れ地蔵のある桐ケ谷の野辺送りについて、貴重な記録写真を掲載されているページがあるのでこちらで紹介。(大正13年11月29日、安藤義治家の葬儀 祖父・弥七さんの野辺送り)
すっかり役割を終えたように思える子別れ地蔵かなと思ったが、子を送った親の気持ちは時代を越えて繋がっている。そして、このお地蔵様を大切に守っている地域の方がいることが、美しく保たれている姿からもわかる。
初参りやお食い初め、端午の節句などなど、子の健やかな成長を願って行う行事は、子供が生まれる前は、ビジネス的なにおいがするなと思ったものだが、子別れ地蔵が建立された時代には、今よりずっと強い気持ちで願ったに違いないだろう。昔と比べて大幅に改善している子供の生育環境がありながらも、この場で子別れした江戸の人々の姿を想像しながら、願うという気持ちを強くしている。