稲葉俊郎「ことばのくすり」で暮らしの健康を見直す

 

「おくすりてちょう」に引き続き、稲葉さんの2023年4月の新著です。僕は、健康診断上は、至って健康ですが心身のバランスを考えた上で健康であるかどうか、自分でも自信が持てない部分があります。そういう時は、自分で定期検診のように暮らしを見直すきっかけを持つことがいいのだと思います。それにこの一冊は、とても効き目があるのだと読んでみて気がつきました。

また、本書の中に、表現の泉という章がありますが、そこで推奨されているいわゆるタイムカプセル「体験を書き残すことで、心動かされたときに生まれては消えゆく泡のような不定形な感情が仮にでも保存されます」を実践してみます。以下、メモです。

新しく、はじめるということ 

人はどうしても自分自身が光であることを求めるものです。ただ、光は影や闇によって支えられています。影への畏怖や礼節を忘れると、その人の全体性のバランスは崩れてしまいます。つまり、トラブルや災厄という短期的には負の体験としか考えられない思いがけない形で、自分の影は自分自身に復讐してくるのです。私を見て、と言わんばかりに。そうした影に適切な居場所を与えることで、ときに居心地の悪い思いをすることもあるでしょう。しかし、自分の影を認める経験を通じてこそ、人間性や人生に奥行きが生まれます。

とは言え、自分にとっての影が具体的に何を指すのか、うまくイメージできない人も多いかもしれません。それでも多くは「おのずから」訪れて来ます。しかもそれは一見すると、負の体験に思われるものです。ですがすでに述べたように、負やマイナスのレッテルを貼っている場所にこそ、これまで見ようとせずに拒んできた自分の影の要素が含まれているはずです。

P41

中年の危機と言われる状態は、この影が影響しているのではと思います。自分も、時折、仕事面でこの影の存在に気がつくことがあります。特に会社組織ではなく、自身でフリーランスとして働いていると仕事の方向性というのは、自分である程度決めていける自由度があります。しかし、その自由は逆に自分がそれを行使しないと不自由を生む原因にもなりえます。進む先に違和感を覚えると、この影が発動します。
その時は、きっと影を認め声を聞き、適切な居場所を与えるために何かを変える時期なのだと思っています。このメモを書いている今も、実は、そんな影が出ている時だったりします。一見すると、それは悩みの種ではありますが、これまでにずっと放置してきたことによって影が我慢ならなくなっているということだと理解しています。また、その理解に、この章は助けになってくれています。

朝食と世界 

どんなに質のいい「食」を摂取しても健康や幸せをえられないことがあります。それはなぜでしょうか。体だけでなく、心にもエネルギーに相当するものが必要だからです。心のエネルギーが枯渇し不足していると、よい食事と良い呼吸があったとしても不十分と言えます。心のエネルギーとは、芸術や文化などから供給されるものです。体には1日3食の食事が必要なように、心にも1日3食程度の食事が必要なのです。それを怠り続けると、心も栄養失調になることがあります。

P57

「食事」は習慣が大切なのだと思いました。その二、三日を特別なことをしても、その後の大部分が不足気味な「食生活」では意味がないのではないでしょうか。僕は、この文章を読んで、朝のニュースをやめてみることにしました。社会の情勢を知っておくことは、それなりに必要なことだと思いますが、目覚めてすぐにそれを耳にすることは何か順序が違っていると考えたからです。

コロナ禍や紛争や戦争、社会問題と、目覚めて自分と自分が選んだ家の場所の周囲の環境、家族との接続もままならない状態で、刺激の強い外側の情報に触れるべきではないですね。早速、試していますが、代わりに春でしたら外で囀る鳥の鳴き声、家族やラジオの楽しい音楽やおしゃべりを聞くことにしています。寝る前にスマホなどのブルーライトを浴びない、など気をつけていても、朝は盲点でした。長期的にどのような変化があるのか、しばらく観察してみたいです。

表現の泉 

自分の中に「表現の泉」として訪れる場所を常に設けています。例えば絵を見たり、芝居を見たり、音楽のライブを聴いたりするたび、それらの体験で感じたあらゆる情動や心の動きを「表現の泉」と決めて、心の地図に位置付けているのです。(中略)

体験を書き残すことで、心動かされたときに生まれては消えゆく泡のような不定形な感情が仮にでも保存されます。それを後から読み直すことで、その小さな手掛かりを入り口にして当時の感情を追体験できます。書き記す行為を、ある種のタイムカプセルだと考えてほしいのです。

P72

20代の前半からWEBやブログに何かを記す習慣を持ってきたものでしたが、年々、書きづらさを感じるようになりました。その一つは、立派なものを書かないといけないというプレッシャーを感じるようになったからかもしれません。2000年代までのブログは、本当に気の通じた人しかわざわざ見にきたりはしませんでした。SNS時代になり、友達というよりは知り合いや仕事関係の人々が目にするメディアに変わったことで、投稿する敷居が上がったのではないかと思います。

そう考えると、そういうSNSと一線を引いたWEBメディアを自分で持っておくのもよいのかもしれません。

この表現の泉でこころ動いたものごとについて、ちょっとしたメモを書き記しておく。そして、それをふとしたときに解凍して再度味わってみる。その繰り返したが、表現を豊かにしてくれるのではと思います。そういえば、20代の頃に書いていたブログは今もWEB空間には漂っていて、10年サイクルくらいで目にすると、なんとも青いと思いながらも、今では失われた感性があってかつての自分に教えられる時があります。

バズる必要なんてなく、もしかしたら自分さえも読者として想定してこだまするような綴り書きというのもなかなかよいのではないでしょうか。

食事と礼節 

青年期の横尾さんは、三島由紀夫からこう言われたそうです。

「縦糸が芸術だとすると横糸が礼節だ。その2つの交点に霊性が宿る。地上的な作品を作りたければ無礼でいいだろうが、天に評価される作品を想像したければそこに霊性が宿らなければならない」。(中略)

三島由紀夫の言葉を借りれば、人格にも芸術にも「霊性」が宿るのです。人格や芸術に霊性を宿すことのできる人はほんの一部かもしれませんが、人としての礼節を保つことは、誰にでもできることです。だから私はそれ以降、三島から横尾さんへと「霊性」を渡されたように、私も「礼節」を横尾さんから渡された言葉であるととらえました。「いま、私は礼節が保たれているだろうか」と。これは常に私が意識していることです。

私が横尾忠則さんから受け取った言葉は、三島由紀夫が横尾忠則さんに渡した言葉です。言葉はそのようにして時空を超えた舟となることがあります。

P101

礼節が備わっていることがどれほど大切なことか、年々わかるようになってきました。僕は、昭和の後期の生まれですので、無邪気に遊んでいた小学校から中学校に上がるときに、急に部活動で先輩後輩の概念が色濃くなり、礼儀が大切だと言われたことを思い出します。でも、本当の礼節は、年齢や立場によって態度や扱い方を変えないことなのだと思います。

本当に親しい人同士は、表面上の言語がカジュアルなだけでその根底にあるやり取りには、信頼や愛情と礼節が備わっているのだと思います。その厚みがない関係性では、言葉は礼節を保つための第一手段なのかなと思います。改めて自らを振り返りたくなる章でした。

また、時間というのは、礼節に対して大切な側面を持っているのではないかと感じることもあります。むしろ、効率化とは違う方向にあるのではないでしょうか。三国志の有名なエピソードに三顧の礼があります。3世紀ごろ、劉備という将はどうしても自陣に迎えたかった若くして隠遁生活をしていた年下で地位もない諸葛孔明の家に三度尋ね、三度目は昼寝中に起こさずに外で待ち口説いたといいます。少々例えば古すぎるし、天下泰平の思いがあったとはいえ、劉備の下心が見えないわけではないですが。時間なくして礼節も難しいのかなとも思います。

そんな特別な意図がなくても、礼節を重んじながら人や動物をはじめとして周りの環境と接していけたらいいです。

以上、一読後に特に心に残ったものについて書き記してみました。今回の著作も読後にこころが動き、行動が変わる可能性を感じました。それが習慣にまでなるのかは、少し経過観察が必要です。

PS:かつて星野道夫さんのエッセイで次のようなことを読みました。こころが動いたことを他人に伝えるために何ができるかを考えた大切な友人が、最終的に自分が変わっていくことだ、自分と接した人がそこから何かを感じ取ってくれることだと、書かれていたことをふと思い出したのでした。