庚申供養塔の美

江戸時代から大正時代くらいまで、庚申信仰なる民間信仰があったことを、古い道は知らせてくれる。

干支や年を元に計算し、特に庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされたという。60日に一度、3年間で18回庚申待ちを行い供養塔を建てた。

現在、ぼくが暮らす戸越や桐ケ谷周辺でも、江戸時代には眠らずに会食をして過ごした。

ネット上にある各地域の庚申について読むと、明治以降は、徹夜はせずに当番の家でいっぱい飲んでおしまいにしたという記録もある。大正時代に入ると、近代化に中、この文化が消えてしまった。

人間の体内には三匹の尸(し)、 または彭(ほう)=虫が潜んでおり、庚申(かのえさる)の夜、人が眠っている間に抜け出して天帝の もとに上り、その人の罪や過失を告げて命を奪わせるという。眠らなければ三匹の虫が 抜け出せない、ということでその夜は眠らずに身をつつしんで過ごさねばならないとする。
そのための禁忌を道教で守庚申といった。日本に伝わって変化し、徹夜とつつしみの行事は残ったが三尸虫の伝承はなくなり、行事にともなう 会食・談笑のほうに重点が移っていった。[小学館百科事典]

 

この戸越地蔵尊は、毎日掃除や花が生けられ地元の方々が、大切に守っている。時代が線で繋がっていることを意識できる貴重な場だ。

この一本は、権助さんたちが1673年に建てたと記されている。まだ徳川家康が亡くなって67年しか経っていない時代。第二次世界大戦が終わって72年の今年よりその間は近い。

写真も映像も残っていない過去のことだから、リアリティが今一感じられないけど、こうして残る造形物を見ると作った人々は我々とそんなに大きな違いの無い人だったことはわかる。

なにせ、時を経てもその美しさが残っている。そして、気持ちが整う場をつくってくれる。それを作った人々と、僕達は繋がっていると自然に思えるのである。

写真は品川区の資料によれば下記のもの

・延宝元年(1673)の道立。
・施主として権助以下6名の名を記す。
・正面中央部は空白で、下部に三猿を配す。

 

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