自宅の横を通る細道は、旧中原街道という。住所でいうと品川区荏原二丁目あたり。現在は、大きく拡張された中原街道と脇道のような旧中原街道と区分されている。賑やか過ぎる新道と比べると、旧中原街道はほそく緩やかに蛇行しており道の成り立ちに古さがある。
平塚橋の歩道橋から見えた東京タワー(写真左上)が見えたことを意外に思い、地図を見ると中原街道から桜田通りと一本で繋がっていることがわかった。その先は虎ノ門、そして皇居。
品川区の図書館で資料をあたってみたところ、「中原街道」という品川区によって編纂されたマニアックで興味深い書籍が刊行されていた。この本によれば東海道より古く、鎌倉時代にはすでに記録があるとのこと。どうりで、道に江戸の道標となる箇所もあったり、かつて歴史作家の池波正太郎氏が居を構えたりとするわけである。
品川区荏原二丁目といえば、戸越のあたりであり、江戸を超えて武蔵の国へと至る境辺りだっという。江戸から西国へ旅立つ人々が、日夜歩いていたことであろう。
ふと、江戸はどの程度の規模感だったのだろうと思った。
地下鉄、バス、車と交通手段を利用することでかつて江戸であった東京都心の土地に対して身体感覚が伴わないままもう10年以上住み続けている。この気付きをきっかけに、江戸とはどんな規模の町だったのか身体感覚を伴う形で理解してみたい。また激しく新陳代謝を繰り返す東京の町で姿を変えながらも、過去と繋がる気配を残した場で東京や江戸の「もうひとつの時間」を探してみたい。
そのような思いに至ったのは、上海、ロンドン、インドをはじめ30代の前半から6年間異なる都市の中で、都市と人の記憶に惹かれながら過ごしてきたからかもしれない。特にロンドンの町並みは古く、憧れを抱いた。なんでもすぐに壊してしまう東京とは違う、と思ったものだった。
東京には、東京なりの新陳代謝を急ぐ理由がある。それは、かつては戦火であり、現代では急激な経済成長だったり、自然災害への対応だったり。
しかし、そんな変遷の中にも今に繋がる記憶を留めた場所があることを、今一度東京に暮らすようになり関心が向くようになった。姿を変えても、出会える過去があるような気がするのだ。