「からだとこころの健康学」稲葉俊郎

一緒に健康を考えたい大切な人と共有して読むのにおすすめ

今回は推薦図書について書きます。

友人の稲葉俊郎さんの新著です。

三冊目の著作は、2時間で読めてイラストも充実していて、これまでの単行本以上にわかりやすい一冊になっています。

僕は、この本は一緒に健康を考えたい家族と共有して読むのにおすすめだと思っています。たとえば、両親と一緒に健康を語り合うのはときに難しいものです。それは、お互いが前提としている意識も違うし、生活スタイルも違います。直面している身体や精神の段階も違う。

だからといって、難しい一冊を共に読み解いて意識を高めるというものも、よほど意識が高い一家でなければ難しいのではないでしょうか。

そんなとき、この一冊は持ってこいです。

西洋医学の心身を科学の力を借りて他力で管理していく考えと、東洋医学の身体感覚を整えて自力を活かして健康になっていく二つの視点から書かれています。

医師は通常は病気の人にしか関係することができないかもしれません。しかし、こういうやさしい口調で語りかける著作は、臨床の場をまだ病気になる前の人々の日常まで広げる活動で敬意をいだきます。

特にこころに響いた部分を抜粋するとともに紹介させてください。

部分と全体の関係性(P38)

私たちのからだの各部分は全体のためにあり、全体は各部分によって維持されています。部分と全体は分けられない一対のペアの関係です。部分はお互いに連携し合いながら全体に影響を与えます。これが、「健康」という全体性を考えるときに大事なポイントです。(中略)
治療していた部分と違う部分が自然に変化することで、全体のバランスがよくなることがあります。(中略)
部分だけを集中して治療することで結果として全体のバランスが失われると、治療が逆効果になってしまうのです。

病院自体が専門化していて、罹る科によって問題がある部位を中心に治療されることもあり、この全体性に意識が向かないのが現状のようにも思います。だからこそ、自分でそこをつなげて、個別と全体の繋がりに意識を向けることが重要です。それこそ薬を飲んでいたり、外科的治療をしたからといって、食生活や睡眠など、からだの部位に直接的、間接的に影響を及ぼすことも蔑ろにしては、部分も全体もバランスを損なうはずです。

「からだ」のシグナル(P44)

何か病気が見つかったときには、「からだ」からのシグナルをそれまで以上に敏感に感じてみようとする真剣さこそが必要です。(中略)
「からだ」が何かを訴えているとき、「あたま」の解釈はアクセルにもブレーキにもなります。だからこそ、「からだ・こころ」と「あたま」との関係性が切れてしまうことは、生命全体の維持にとっては危険なことなのです。

病気になったときに、からだ側の立場になってその意味を考えてみることは僕も大切だと思っています。この視点には、そもそもその状態にからだをしてしまった生活スタイル自体を見直さなければ、根本的には解決しない可能性を秘めています。そういえば、僕自身も偏頭痛に長らく苦しめられていますが、これももしかしたら暮らし方、働き方に問題があるのではと思っています。

自力と他力(P50)

医療や薬という「他力」だけでなく、例えば環境をがらっと変えて自分のからだを根本から変化させて自前治癒力を高めること、つまり「自力」の養い方を深めることも大切です。

僕は理想の暮らしを求めて、引っ越し計画を綴ってもいますが、その一つの理由にはこの自力の治癒力をより強くしていきたいと思ったこともあります。たとえば、大きな幹線道路のそばでどんなときも車がびゅんびゅんと通り過ぎる音をからだに受けなら過ごすのと、自然の中で木々が揺れる音や虫の音などが聞こえる心地よい環境とどちらが身体にとって幸せであるか、自明だと思います。

確かに、幹線道路の近くはすぐにどこにもアクセスしやすくて機能としては優れているかもしれませんが、かわりに失っているものもあるのです。

「快・不快」のセンサーを磨く(P67)

「あたま」が「からだ・こころ」に上から目線で司令を出している状態が続くと、しばらくはごまかすこともできますが、その歪みは少しずつ蓄積されていきます。そして、ある限界に達すると、「からだ・こころ」が一番心地よい状態へと戻ろうとする復元力が働くのです。
そこで私は臨床現場で、例えば脈の以上がある人には、「自然のリズムと自分の生活リズムが一致するように生活してみてください」と伝えます。わかりやすいのは太陽の動きと自分の生活とを一致させることです。

そういえば、以前、Snowpeakの社長が著作で、キャンプをすると日が暮れたら人は寝るのがからだにとって自然なことで、それが身体感覚を取り戻していくきっかけになる、といったことが書かれていたことを思い出します。

僕も相当宵っ張りですが、日中のからだの調子の良し悪しは、この太陽のリズムと強く関係しているだろうなとは気づいてはいます。(なかなか改善しきれないのがもどかしいですが・・・)

からだに触れる(P87)

具合が悪いときや痛いときに手を当てるのは、無意識に注意をその部分に向け、情報のやり取りをしているからです。これは、体の自然な動きなのです。
それと同じように、具合が悪くなくても、いつもあまり意識していないところに手を当ててみてください。手は道具を使う場所なので、センサーとしての働きが強い部位です。手を当てることで、意識がそこへと集中してセンサーの感受性が高まります。
「あ、ここは本当はあまり具合がよくなかったんだな」「このあいだ良くなったと思っていたけど、やっぱりまだ本調子じゃなかったのかもしれない」など、普段見過ごしていたことに気づくことができれば、それだけで大きな発見です。

自分のからだであっても、すべての部分に意識的になれることは少ないような気がします。特に、背中側は目も届かないのでどんな形や色をしているか、肌の状態はどうかなどもほとんど見たことがないです。

しかし、手では触れることができます。そうすることで、確かに意識を向け状態について感覚的に把握することができます。そういえば。インドでヴィパッサナー瞑想をしたときに、頭から足の先までゆっくりと意識を向けて感じていくという瞑想をひたすら繰り返すというものがあります。こちらは手で触るよりいくらか難しいような気もしますが、本来であれば、痛みを感じるなど違和感がないと意識が向かないからだの部位に対して意識が向けられるというのはとても新鮮です。

「健康」のための「死」(P98)

「死」は本来、私たちのいのちに包含されています。初期設定として埋め込まれていると言ってもいいでしょう。
私たちは、皮膚感覚として「死」を感じる機会を遠ざけたことと引き換えに、「生きる」ことの充実感や切実さを失ってしまったのかもしれません。

自分にとってもそうですし、自分が親しくしている人の人生にも限りがあるということをひしひしと感じることが、心身の健康に繋がっていると思います。それはからだの健康だけではなく、関係性の健康や健全さにも繋がっていはいないでしょうか。限りある関係性、そのためにともに過ごす時間のかけがえのなさ。あるいは限りある自分の人生にとって、ネガティブな影響が強いため少し離れて過ごそうか、といった判断だってあるはずです。

充実した人生の入り口(P100)

私たちは本来、生まれ、生き、死ぬというプロセスの中で生きています。誰も「死」からは逃れられません。この世に生まれ、生きている以上、すべての人は必ず死を迎える。それは誰にも平等に与えられたけじめのようなものです。

死がけじめである、という部分を読んだとき、深く考え込みました。死というけじめを自分なりに納得がいく形でつけるには、誰と何を自分はしていきたいのだろう、した方がいいのだろう。

確かにこれまでも、明日が自分の最期の一日だとしたら何がしたいか、など考えたことはありましたが、あまりにも唐突でピンと来ていませんでしたが、「けじめ」をつけていくという考え方だと、確かになさねばならないことがいくつもあるぞ、と思ったのでした。

さいごに

本書は、医学のことを書いているというより、治療も大切だけれど、治癒していく生活スタイルを大切にする、ということや、健康について自分で決めて取り組んでいく、という意識の変化について書いています。

優しく読めるので、ぜひご自身、そして家族と一緒に読んで少し対話してみるとじんわり意識と行動が変わるきっかけになるのでは、と思っています。ちなみに、僕は、愛知で暮らす両親とこの本をきっかけに、対症療法になりがちだった両親と自分の健康について対話する機会を得ることができました。