祖母の96年目

3月に祖母が96歳になった。

ゴールデンウィークに愛知に帰省し、正月以来の再会をした。

祖母は29歳で結婚して、同じ県内の旧七宝町(以前は村だった)に嫁ぎ、七宝焼の窯元三代目の祖父に嫁いだ。

その時、祖父は30才で、和菓子屋への丁稚奉公を終えてから戦争に行き、兄がフィリピンで戦死したため急遽、七宝焼の窯元を継ぐことになった。進駐軍に七宝焼きを売りに行き、僕の母のミルクを調達したという。娘三人を育て、孫も四人できた。

その後は70代で祖父と死別し、それからもう20年近く経つ。

96歳になって、これまでと違うことは、いつも実年齢より二つほど上の年齢を言っていたが、今年は95歳と下を言ったことだ。

いつも、数え間違えじゃないかと言っていたものだ。祖母は耳がかなり不自由になったこともあり、ときどき記憶の前後は若干曖昧になるときがあるが、割りとしっかりしている。それでも、今年になって年齢が進まなくなったことは、これまでと何かが違う兆しなのだろうか。

また、僕が帰ったからか興奮がちで二日ほど起き続け、その後、二日間ほとんど食べもせず眠り続ける。そういうことが、90才の半ばくらいからときどきあると母は言う。

祖母が寝ている部屋には、祖父母の婚姻式と書かれたモノクロの写真が飾ってある。起きている時、夜は遺影に向けて経を唱え、守っていてちょうだいよ、と語りかける。町内で最高齢に近く、自分の知る同年代はほとんど亡くなっている。そのことが、少しずつショックなのだ。

5月5日のこどもの日。

妹の子供達、5才と1才がやってきてわいわいとしている中も、祖母は静かに眠っていた。大事にしている飼い猫のジンジャーが、祖母の脇を行ったり来たりと優雅に歩いている。祖母が神社で見つけて来た仔猫も、今年で10歳である。時が流れる。

ふと自分が96歳になって同じように眠っている中、自分の子供や孫、曾孫たちがわいわいとしていたら、どんな気分だろうと想像していた。自分のことを一番よく知っている、親、敬愛していた姉、夫を亡してからの生活。

血縁のある子孫がいることの喜びと同時に、共に過ごした若き日の時間を無言の内に共有し、自分に無償の愛情を傾けてくれた人の存在を埋めることはできているだろうか。それは、同じ状況になってみないことには正確にはわからない。今は自分の親がいなくなることも想像することはとてもむずかしいことで、配偶者、出会った友人たちとの死別も想像することすら先送りしたいことだ。

とりわけ、感情の強い祖母のことだから、晩年は辛い思いが募ったのではないか。

東京に戻る間際に挨拶に行くと、祖母は一瞬だけ目をあけて「まあ行くか。気をつけてやれよ」と言って、また眠りについた。

祖母宅の玄関の壁にいくつかのポストカードが貼ってあって、その中の一枚を手に取ってみた。それは、僕が2002年にミシガン州から送ったものだった。あれから15年。既に、祖父は亡くなり、僕は大学院生として学び、そして就職に向けて最後の学生生活を楽しんでいた。その間、就職し、海外赴任し、留学し、起業し、結婚した。

これから15年。僕は50代半ばになり、今、こどもの日をわいわい楽しんでいる姪たちは高校生になっているはずだ。

愛情を返す年代になり、親や子たちを見守る存在になっていることだろう。

そして、また15年。少しずつ見守られる存在になり、失うことを体験しているはずだ。

45年後、僕や妻は、どこでどう暮らしているだろうか。長く生かされたものは、幸せが多いのか、それとも辛いのか。それは気持ちの持ちようなのか。

いずれもそのときが来てみないとわからない。ただ明らかなのは、今の延長線上にあることだけである。

祖母の眠る姿を見て、自分はもらった愛情を誰かにしっかり注いでいるだろうか。もっと手紙を書いて、休みのときには戻ってこようと思った。

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